初めてのロケ

今回のシリア、イラク行きは2月21日にNHK-BSで放映される予定の地球特派員の取材でした。地球特派員はすなわち私で、ナレーションまで私が付けるそうです。

スタジオの外でのインタビュー程度はありましたが、いわゆるロケというのは初めてでした。

「大野さん、歩きながらつぶやいてください」、「大野さん、ここは地元の人に語りかけてください」云々と、考えれば笑ってしまうような迷演技でした。

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しかも、アラブですから、ハプニング満載です。
徹夜で北イラクからアンマン国際空港、そしてシリア国境まで来て、「今日は寝ましょう」と言っていた矢先に電話が入り、「外務次官が待っている」と連絡が入ったり、撮影をしていると人が群がるのは当たり前、インタビューをしている人物以外が口をはさんで言い合いになったり、更にはレポーターが勝手に店に入ってつまみ食いしたり(これは私です)、ディレクターが食べなれない羊を食べて以来、突然羊嫌いになったり。。

そのロケも明日で終了、帰国の途につきます。スタッフの皆さん、わがままな大野につき合わせ、お世話になりました。
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北イラク雑感

北イラクから出国しました。あっという間の滞在で、できなかったこと山盛りでしたが、19年ぶりのエルビールは大きく様子を変えていました。

オバマ大統領の就任式は、クルド人が集まる喫茶店で一緒にジャジーラ放送による中継を見て、彼らと意見を交換しました。以前紹介したブッシュ大統領の任期終了を喜ぶ声は、クルド地区ではほとんど聞かれないのは、予想したとは言え、驚きでした。半分くらいの人々は、「ブッシュは独裁者から我々を解放してくれたのだから、いい大統領である」との意見を有していました。このような意見は、ほかの中東諸国ではなかなか聞かれないものです。それにもかかわらず、半分以上の人々は、オバマ政権が中東全体の紛争に変化をもたらすのではないかとの期待を抱いているようです。

その一方で、ブッシュ政権の任期に関する意見交換をしている際に、喫茶店全体を巻き込む議論を仕掛けた若者がいました。彼曰く、「独裁者サッダームにせよ、所詮米国の手先として働いていたことがあり、イランに戦争を仕掛けたではないか。ハラブチャでクルド人が虐殺された時、米国は沈黙を守ったではないか。初戦は米国の政策に我々は振り回されているのだ。」これに対して、多くの人々が、「それでも誰が独裁者からクルドを救ったのか。」等の意見が飛び交ったのです。最後に一人が、「だれにせよ、クルド人の権利を認めてくれる大統領が必要なのだ。」と述べていました。

クルド地区の人々の意見が他の中東諸国と異なるのは、対米姿勢だけではありません。街中では、イスラエルによるガザ侵攻を批判し、パレスチナ人との連帯を求める、ほかのアラブ諸国でよく目にするような幕や運動は見られませんし、新聞もガザにほとんど注意を払いません。この点をクルド民主党(KDP)の政治局員にぶつけてみると、彼は、「正しいアプローチではないが、サッダームがクルド人を虐殺した時、ただ一つのアラブの国もクルドへの連帯を示さなかった。最悪の虐殺を経験した我々ではあるが、このようなアラブの過去の態度に鑑みれば、ガザを支援する気にはならないのだろう。」と述べていました。

やはり中東は複雑です。クルドの人々が異なるのは、政治的立場にとどまらず、イラクという国内にいるにもかかわらず、ほとんどの若者はアラビア語を話しません。クルドは新たな問題となる可能性と、新たな共存の可能性を示しているのかもしれません。

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クルドの部族

エルビール滞在は早くも2日目を迎えたが、やはりこの地は、大都市であるにもかかわらず、今でも部族色がきわめて強い。

頭に巻くスカーフやその下にかぶるものは、部族により巻き方やデザインが異なり、たとえば、自治政府大統領の所属するバルザーニー一族のそれは、Barzani白いかぶり物で、スカーフはそのはじを少したらすのが普通である。

その後、膝の上でスカーフを巻いて形を整え、それをかぶれば、バルザーニー一族の一員の出来上がりである。

Hat Barzani2  ちなみに今日は、バルザーニー一族のある家族に夕食を呼ばれて行ったが、延々とペシュメルガ(クルド民兵:死を恐れぬものという意味)として英雄ムッラー・ムスタファ・バルザーニーに従った彼らの父親の話を聞かされた。

1947年、イランに設立されたクルドの共和国、マハーバード共和国が短命に終わると、イラクから参画して国軍司令官となっていたムッラー・ムスタファはイラク北部に戻るが、イラク国内に居場所がないことを理解すると、支持者たちと共にソ連に亡命する。この508名の支持者たち(ソ連に到着したのは501名)の一人が、彼らの父親ベクであり、それは彼らの大きな誇りなのである。彼らの父親はその後、長年ペシュメルガ活動に身を投じ、山岳地帯でイラク軍を苦しめ、最終的には年老いて、イラク政府の許しを得て故郷に戻り、隠居生活を送る。

Wajba 一通り彼らの話を聞いた後(全部で5時間半にわたった)、豪華な食事となった。

座らされたのは、長老が座る奥の席で、食べ始めるのは私からだ。少しすると、しきたりに従い、別の場所で食事をしていた最年長の女性、つまり彼らの母親があいさつに来る。彼ら一族はほぼ隣同士に住み、毎日、母親にあいさつをし、なにも用がなければ実家で食事をする。

Wajba2 そして、「わが部族がお前の安全に責任を負うのだから、云々」と口上を述べられて、最後はお礼をして辞去した。

なんとも微笑ましいが、毎日続くと、面倒なしきたりでもあった。

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イラクは遠くなりにけり

今日は、北イラクに赴く予定でしたが、二転三転して、けっきょくダマスカスに戻ってきました。

ダマスカス発バグダードおよびスレイマーニーヤ経由の12時半発イラク航空機に乗る予定が、スイレマーニーヤのには立ち寄らないと、一回目の変更。

次に、出発時刻が12時になって、二回目の変更。

さらに、出発時刻が7時になり、三度目の正直と思いきや...

イラク航空であらかじめ問題ないことを確認し、ボーディング・パスを貰い、出国のはんこうをもらって、バスに乗り、タラップまで行ったところ、「北イラクのビザだけでは不十分で、中央政府発行のビザをもらってこい」と言われ、さんざん押し問答した揚句、追い返されました。

明日、ヨルダンまで陸路で出国し、そこから北イラク便をトライする予定です。

そもそも、北イラクの「自治政府」が独自にビザを発給すること自体、ナンセンスです。

悲惨なので、おととい撮影したウマイヤド・モスクの夜景を一枚。Masjid

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イラク青年食堂

現在、仕事の関係でシリアに滞在しています。久しぶりのシリアですが、町並みはあまり変わりなく、物価は上昇したかなという印象です。ほかのアラブの国に久しぶりに訪れると、印象が一変するほど新たな建物が立ち並んでいるのが普通なのに、産油国であるはずのシリアがあまり変わっていないのはさびしい限りで、経済政策はもとより、米国一極支配の世界において反米のレッテルが貼られる政治的意味も、少なからず影響を及ぼしているようでした。

ところで、シリアには数多くのイラク人難民が滞在していますが、その中でシーア派が集まるダマスカス市内のサイエド・ザイナブに行ってきました。かつてイラン人で占められていたこの地区には、イラク人の姿の方が目立つようになっています。八百屋で、「ラッギー」とスイカをイラク方言で呼ぶ姿には、感激してしまいました。

90年代にヨルダンにおける私の最もお気に入りのレストランの一つであった「マトアム・シェバーブ・イラーキー(直訳すれば、イラク青年食堂。小生の友人のホカリ氏が日本名命名者です)」というイラク飯屋がアンマン市アブダリーにありましたが、この店は再開発でなくなってしまい、さびしい思いをしていましたが、なんと、ダマスカスのサイエド・ザイナブにおいて、系列と称する同名店を発見しました。仕事の関係上、まだここで食事をしてはいませんが、あまりの嬉しさに店内に入りはしゃいでいたら、ビーツのサラダだけ、ただでごちそうになりました。ノリの悪さもイラク人らしく、中途半端で嬉しかったです。

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アンマン開発事情

アンマンの地価が沸騰し、インフラ開発が顕著である。

かつてトランス・ヨルダンと呼ばれていた、現在のイスラエル、パレスチナおよびヨルダンの内、イスラエルが肥沃な土地に成立した結果、ヨルダンはもっと荒廃した土地の地域に位置する。それゆえ、元来は大都市もなかったわけだが、67年戦争においてイスラエルに敗北してヨルダン川西岸地区を失った結果、40万人といわれるパレスチナ人がヨルダンに流入し、ヨルダンの首都アンマンは、一気に膨張した。060922_13410001

その後の人口爆発期を経て、現在では人口増加率は2.6%と落ち着いてきてはいるものの、すでに人口は550万人に達している。その内、アンマンには39%が居住している(ヨルダン統計局発表。Jordan Times, July 27, 2005)。戦争前には数千人の町が現在では220万人が居住する大都市に変貌を遂げたのである。

このため、土地の価格は暴騰してきたが、最近また、開発ブームとイラク人等による投資集中の結果、地価は再度暴騰している。昨日会ったヨルダン人は、30年前に購入した土地の価格が260倍になったと話していた。日本ではないが、ヨルダンの土地神話にも根強い信仰が寄せられている。

これだけの爆発的な町の拡張に対し、常にアンマンではインフラ整備が追いつかない状況にある。貧しい土地に成立したヨルダンであるから、当然、人口が集中すると水が必要になる。しかしながら、かつて水源としていたアズラクの水はすでに枯れ、そこにすんでいたカバは死に絶えた。標高800メートルに位置するアンマンにくみ上げられる水は、青みどろだらけの汚い川が水源であり、そこもイスラエル兵士駐屯地から数百メートルに位置して、何か問題があればすぐに水の供給が止まる状況にある。

夏の給水は、高級住宅地ですら週1~2回で、ちろちろと流れる水をタンクにためて、各家庭で使用する。つまり、トイレの洗浄水が止まらなかったりするだけで、数日間水がない状況になる。かつて私がアンマンに住んでいたときには、風呂を毎日ためることはできなかった。

かねてより悪化していた水事情はもとより、現在では開発ブームで様々なインフラ分野で支障がさらに大きくなっている。現在アンマンで進行中の橋梁や道路建設、電話敷設等の工事は、これらの障害を克服するためである。

ある意味で建設ブームは国を潤し、一昨年来の石油の高値は、アラブの産油国と経済関係が緊密なヨルダンをも潤している。しかしながら、土地代、エネルギー代を始めとする物価の高騰は、バブルに乗れない人々を苦しめている。昨年の統計によれば、失業率は12.5%であったが、就職事情は好転しているとも言われている。その一方で、貧困ラインを下回る人が30%もいたとされており、この層は拡大しているように見える。

アンマンの商業地区には、多くの人々が集まり、ヨーロッパさながらの様相を呈しているが、その裏には貧しさも同居している。早朝にアンマン市内を歩くと、ゴミ箱を漁る子供たちという、普段は見れない光景に出くわすことがある。ヨルダンはどこに行くのであろうか?

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カイロ・クロッシング

カイロで道を渡るとき、ほとんどの日本人が戸惑いを覚えるであろう。信号に頼ることはできない。信号の多くは常時右折可なので、車が完全に止まって歩行者を待つことはない。カイロの交差点には暗黙のルールとして守るべき交差点とそうでないものがあるようで、止まらない交差点で歩行者が安穏とすることは不可能である。

そこで、車の間をすり抜けながら、時に小走りを要求される。どこから飛んでくるか解らない車、クラクションの合唱の中、車の流れを見切る必要がある。060918_15070001

とは言っても、ルールを理解して慣れれば簡単なものである。たかが数十キロの物体が全体としては片方の方向から来るわけで(そういえば、昨日、逆行してフライオーバーに入っていった車が橋の上で往生していたっけ)、運転手もひき殺すことが目的ではない。ほんの少し、日本の道を歩くよりも集中力が必要なだけである。少なくとも、夕方のデパートの食品売り場をすり抜けるよりははるかに簡単である。

しかしこのカイロ・クロッシングの王者は、やはりおば様である。地球の重力に逆らわない素直な体型を揺さぶりながら、飛んでくる車をものともせず、見事にマイペースで交差点を渡りきる。彼女たちが喫茶店の小さなテーブルを覆い隠すようにパフェを食べる姿も壮観だが、時に出現する交差点の「妙技」もまたすばらしいものがある。そういえば、かつてバグダードで、私の前を渡ろうとしていたおば様が、黒い被り物であるアバーヤのすそを踏んづけて、直前で倒れたことがあり、肝を冷やしたことを思い出した。

日本では、携帯メールをしながら歩く若者が多いが、一度彼らを大挙してカイロに連行し、歩かせてみてはどうだろうか?

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