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バアス党排斥見直し:正義と責任法議会承認

 対イラク戦争の後、イラク占領統治を担ったCPAがいち早く導入した法律は、「バアス党排斥法」であった。この法律は、米国が重用したにもかかわらず、後の選挙で政党を率いながらも一議席も得られなかった悪名高いアフマド・アル=チャラビー暫定政府元副首相のアドバイスによるものとされ、サッダーム政権下で不遇をかこった旧反体制派をはじめとする現政権の主要な者たちを満足させた。この法律で使われた「イジュティハース」という単語は、「排斥」というよりは、「懲罰」あるいは「根絶」を意味する強い言葉であった。バアス党排斥のための委員会には、前述のチャラビー元副首相が委員長に就任し、マーリキー現首相等も委員に名を連ねていたが、この委員会は裏の権力を象徴し、旧反体制派を満足させることに貢献し、その予算は高等教育省のそれを上回ったのであった。

 バアス党員排斥法は、しかしながら、イラクに問題を拡大させた悪法との評価を受けた。強い感情とともに排斥されたスンニー派を中心とした旧バアス党員は、職を失い排除され、経済的に立ち行かなくなり、米軍やシーア派民兵の攻撃の対象になって反発を強め、「抵抗運動」の基盤となり、あるいは米軍や新政権を標的とする「テロリスト」たちの活動の揺籃となった。

 サッダーム政権下、バアス党に共鳴せずとも、自らの安全や経済的利益のために多くの官僚がバアス党に参加したが、彼らは国家を動かす重要なテクノクラートであった。これらのテクノクラート層が排除されたイラク政府の能力不足は、明白であった。さらに、国民融和が叫ばれる中で、旧バアス党員をいかにして取り込んでいくかは、国家の安定にとっても重要であるが、バアス党排斥法は大きな障害となってきた。

 このような経緯もあり、バアス党排斥法は多くの非難を集めた。中央政府の信頼を回復するために政府の機能を正常化させ、不満を有する層を取り込んで国民融和を進め、宗派対立を終わらせ、テロリストたちの揺籃となっている地域を制圧することは、イラクの安定にとり不可欠に思われた。この法律を進めたはずの米国ですらそこに存在する問題に気が付き、イラク政府に対して、排斥法案の見直しを求めたのであった。マーリキー首相は、本格政権下で初の首相に就任した直後の6月25日、「国民融和と対話」のためとして、サッダーム主義者および犯罪者とバアス党員を切り離し、国民融和を進めることを表明した。さらに2007年3月には、犯罪に手を染めていないバアス党中堅幹部以下の復職および高級幹部に対する退職金支払いを認めるバアス党排斥見直しのための法案が閣議で了承されたのであった。

 しかしながら、政府は、イラク戦争以来の既成の権力構造を覆し、新たな目標を達成させるための求心力も推進力も有していなかった。旧反体制派の人々の目には、旧バアス党員とサッダーム主義者を区別する割り切りは困難であった。それ以上に、バアス党と旧政権の秩序への復讐、「イジュティハース(懲罰)」を脆弱な団結のカギとして作り上げられた権力構造を覆すことは難しかった。クルド勢力およびシーア派勢力の反発は特に強く、いったん手中にした権力を旧バアス党員やスンニー派と分かち合う気はなく、約1年間、この法案は議会で棚上げにされてきた。

 このような中、米国のイラク政府のみならずスンニー派を支援してきたサウジアラビア等の近隣諸国の圧力は強まり、あるいは、カーイダに抵抗するために米軍の報酬を得て力をつけてきた「覚醒評議会」の中で、旧バアス党の将校たちも復活を遂げてきた。結局、この法案は、サッダーム政権に抑圧された人々に対する補償とセットの形で、2008年になってやっと承認されたのであった。

 バアス党排斥法の見直しは、イラクの安定と国民融和には不可欠のことである。しかしながらそれは、一部の人々にとっては、サッダームの亡霊の復活に見えるのかもしれない。大事なことは、サッダームの象徴を排除しても、彼がもたらした安定に貢献するシステムや社会の維持は重要であるということであろう。

 同時期に、イラク議会は、国旗法の見直しに承認を与えた。かつて政権は、サッダーム時代の国旗を廃止し、新たな国旗を制定したが、イスラエル国旗に似た新国旗は国民に受け入れらなかった。結果として、かねてからの国旗が継続的に使用されてきたが、そこに書かれている「神は偉大なり」の文字はサッダーム・フセインの手書きである。独自色を強めるクルド勢力などは、このことも口実にして、独自のクルド旗を掲げ続けてきている。近い内、サッダームの手書きの文字は、別の書体に改められ、新生イラク国旗が出来上がるはずである。

 重要なことは、サッダームの亡霊の復活を印象付けない一方で、サッダームを諸悪の根源と考えて忌み嫌った米国と旧反体制派の論理から抜け出し、必要なシステムは維持し、イラクの安定を第一に考えることではないだろうか。

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サッダームの亡霊?

新年明けましておめでとうございます。

 昨年末の30日は、サッダーム・フセインが処刑されてちょうど1年となった。懸念されていた処刑日に合わせた大規模テロは発生せず、サッダーム・フセインの墓および彼の墓に隣接する二人の息子、ウダイとクサイの墓を訪れる人々が制限されたり、ヨルダンで親サッダームのデモが発生する等の若干の混乱で終わったようである。しかし、サッダームの亡霊は、イラクにおいて再び頭をもたげつつあるようだ。

 サッダームの独裁政治は国民に苦難を強い、米国との対立は、長年にわたる制裁の苦しみをもたらした。しかしイラク政権が打倒された戦争のあとの多くの国民の状況は、サッダーム時代よりも辛い部分も少なくないようだ。最近になって首都バグダードをはじめとして治安の改善こそみられるものの、状況はいまだに厳しい。インフレ率が70%に達する中、失業率も60-70%と高い状況にある。サッダーム時代は、人々にいきわたっていた配給は、現在では約6割程度に行われているのみで、配給のアイテム数も早々に削減される見込みである。スンニー派とシーア派の混在地域からは、いずれかがほとんど排斥され、宗派対立による攻撃の標的が見当たらなくなったことが治安の改善に寄与しているが、かつてのような宗派共存の回復は夢の状況である。

 普通のイラク人にとってみれば、為政者が誰であるかよりも、自らの生活が安定することが重要である。このような中で、サッダーム時代を懐かしむ声はいまだに大きい。というよりも、サッダーム時代の圧政記憶よりが薄れた分、その声は大きくなっているといえるのかもしれない。

 イラクの混乱の大きな原因は、米国が敵視した「サッダーム的なもの」の排除にあった。それは、「サッダーム的」な象徴であった強力な中央集権、軍、治安・諜報機関の解体やテクノクラートの根幹をなすバアス党員の排除であった。しかしそれは、力のない中央集権、治安を維持できないイラク人治安部隊、能力の低い行政府をもたらし、排除された層による抵抗活動を招いた。

 ところが、最近では、「サッダーム的なもの」の復活が見られる。バアス党排斥法見直し法案こそ国会で止まったままではあるが、バアス党員の扱いに関する議論は、かつてと逆の流れを構成している。マーリキー政権が主要な政策を実施できず、閣僚ののべ半数近くが辞任・ボイコットする中で、政府は1年にわたり政界再編を目論んできたが、成功していない。そのような中で、イラク国民リスト、ファディーラ党、サドル勢力が政治対話を開始した。イスラーム党やクルド勢力の間でも新たな協調が見られている。二つのグループを糾合している大義名分は「イラクの統一」に他ならず、彼らの動きは、イラク連邦制に抵抗する運動でもある。イラクは、独立時より北イラクを含めて「国家への帰属意識」が薄かった。あるいは、地方の部族と中央政府の力のせめぎ合いの歴史であった。サッダームは、石油の富と治安機関を用い、あるいは外国との戦争を通じたナショナリズムの高揚によって、イラクの統一を実質的に最も大きく推進させた指導者である。

 米国は、スンニー派地域における部族自治組織「覚醒評議会」がアル=カーイダに抵抗し、治安の回復に貢献していると強調している。治安回復の主たる原因は、米軍の掃討作戦とサドル勢力の停戦で、スンニー派地域の治安の改善状況は限定的である一方で、覚醒評議会は新たな民兵台頭にほかならず、今後宗派対立を激化させる不安定要因になるのではないかとの懸念が、イラク政府内からも続出している。忠誠を誓う部族を積極的に登用する手法は、サッダームが得意とした手法であるのみならず、サッダーム時代に力を有した人材の復活も見られている。この「覚醒評議会」の代表的な指導者の一人でバグダードで最も力を有するアブー・アービドは、元バアス党の軍将校であり、バアス党排斥法案見直し等の政府の枠組みの外で、バアス党員の復活が成し遂げられている。

 サッダームが死亡して、かつての支持者を中心に、彼が美化されている傾向は強い。しかし、サッダーム政権の功罪のうち、「功」の部分が再度強調され、あるいはかつて国を担った人々が、新たな波に乗り始めている様子も見られている。

 本年こそ、イラクの安定が成し遂げられることを祈りつつ。

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