« ヒズボッラーの勝利祭 | トップページ | サッダームに対する死刑判決 »

履修漏れ

有名進学校を始めとする多くの学校で必修事業以外の科目に履修漏れが発生した事件が世間をにぎわせている。この事件を取り上げるのはいまさらという気もするが、敢えて。

そもそもこの事件、現在の学校のあり方を問うている気がする。高等学校が大学受験のためのツールになった結果、「不必要」とされる科目は省き、受験技術を教える傾向が強まっているようだ。特に、少子化が顕著で、学校による生徒の囲い込み競争が激しくなって、「勝ち組」と「負け組」の学校が明確に分かれる中、この傾向はさらに強まっているようだ。

受験生を抱える父親として、以前学校説明会に行ったことがあるが、説明会会場で先生が、ひたすら受験対策を強調し、『特進クラスでは、もちろんクラブもやらない』などと話していたのには閉口した。大事なティーンズ・ライフはどこにあるのか、生徒の生活は説明会ではまったく見えないではないか、との印象を強くした。いじめ、引きこもり、不登校などが問題になる中で、生徒の生活がなおざりにされて学校における特定の技術が強く志向される傾向は肯定されるのであろうか?「特進クラスなど。。。」というと、受験生を抱える我が家の奥さんから、「娘の印象が悪くなるでしょ」と起こられそうだけれど。。。

私は、超一流といわれる国立大学とはるかに受験の基準が劣る大学で教えたことがあるが、両方の生徒が持っているものの差がきわめて大きいとは思えなかった。話してみると、両方の生徒共に、光るものがあり、柔軟な思考が導く刺激ある発想を持っている子供たちが含まれていた。異なるのは、超一流大学では論文を書くという技術が優れており、基礎的な知識が習得されていることのみであったといっても過言ではない。豊かな才能を伸ばせない教育システムが、一流大学への入学生を選別する日本の教育システムなのであれば、日本の未来は暗い。

履修漏れの議論では、追加履修がもたらす生徒の負担や平等性の問題等が議論されているが、その中に履修漏れの対象となった世界史の重要性を説く議論はほとんどないようだ。高等学校で教える中身は、それほどに評価されていないのだろうか。

ここはひとつ、受験科目に含まれていないことを逆手にとって、世界史の授業から、人の名前や年号を一切覚えさせないで、生徒の考える力をつける授業にしたらどうだろうか。「ゆとりの授業」などといって受験のための自習時間にするよりもはるかによいのではないだろうか。

私が通っていたエスカレーター式の高校では、受験がないために特異な授業が横行していた。日本史は一年を通じて「荘園」しかやらなかったように記憶している。大学に入った後、この高校の卒業生は鎌倉幕府成立の年号を言えなくとも、中世日本の荘園が有する社会的背景や歴史的意味を語らせると強かった。それどころか、歴史的思考、論述の論理構成が鍛えられたように思う。荘園の細かな知識は社会に出た後になんら役に立たなかったかもしれないが、得がたい『地頭力』を鍛える機会を得たような気がする。

履修問題が示しているように思われる日本の教育システムの問題は、生徒だけではなく、日本社会にとって大きな損失を浮き彫りにしているように思われるのだが、みんなで変えることは不可能なのでしょうか?

特進クラスを抱える学校の先生、うちの娘が受験するときには、このブログは忘れてください。

|

« ヒズボッラーの勝利祭 | トップページ | サッダームに対する死刑判決 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/179068/12547851

この記事へのトラックバック一覧です: 履修漏れ:

« ヒズボッラーの勝利祭 | トップページ | サッダームに対する死刑判決 »